江戸前のそれとは異なる、独自の形で発展を遂げてきた小倉の寿司。さまざまな海域の魚介が集まり、その品質の高さで知られるこの地の中でも、長年愛されてきた寿司店がこの『寿司 もり田』である。ご主人の森田順夫(のぶお)さんは、昭和10年の生まれというから、現在84歳。現在も板場の前で長男の徹さんと二人並び現役で寿司を握り続けている。
戦後間もない昭和26年、家業を継ぐのが嫌で、縁あって同じ小倉の寿司の名店『天寿し』の先代の下で修業。ただ、当時の寿司ネタと言えばそれほど種類も多くなく、凡そ10種類ほど。仕事としての変化がほとんどなく単調。さらに当時の小倉は日本を代表する大都市で、出前をすることが多かったので、一日中仕事に追われまくって、何度も仕事をやめようと考えたこともあったのだという。
そんなある日、ふぐの刺身の残りを握りにしたところ美味しくて、これを寿司として出せないかと考えたのが、現在のような創作の原点となった。今から65年も前のことである。寿司にするには硬いふぐの身の薄造りを2枚重ねたが、それでは握ると重ねた身がズレてしまう。試行錯誤を重ね、寿司ネタとして成立するやわらかさとふぐの旨みが感じられる、ちょうどいい厚みに開く現在の形となった。そして寿司飯と身の間には小ネギともみじおろしを、仕上げに柑橘の酢を塗って、醤油をつけていただくという、それまでにない寿司が出来た。
ただ、当時は明治・大正生まれの頑固な常連が多く、「これは寿司ではない」と否定されることもあった。それでも、大将が美味しさを認めてくれたこともあり、自分より年下になら出しても受け入れられると考え、当時の若者に対して新しいスタイルの握りを出すようになった。醤油とショウガをベースにした薬味を乗せたカツオや北斎の絵からヒントを得たというイカの握り、皮目だけを炙って梅肉を乗せた鱧など、季節や素材に応じて様々な創作寿司を生んだ。それが当時の若い世代に評判を呼び、現在のような創作寿司が広まるようになったというから面白い。